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vol.14
その十四  伏見・寺田屋を訪ねました
 10月にはいって大河ドラマ「新選組!」も佳境に差し掛かっていますが、その中でもたびたび登場する寺田屋を訪ねました。

 豊臣秀吉が建てた伏見城が取り壊された後、城下町としての伏見は、大坂と京都を結ぶ交通の要衝として反映していきました。
 京の都やはるか北陸・東国から大坂へ、あるいはその逆と、伏見の港と大坂をつないで三十石舟が淀川を行き来していました。


寺田屋全景。

 寺田屋騒動の説明。

 現在寺田屋の残っている伏見・京橋あたりは、船着場に隣接する界隈として、幕末には十数件の船宿が立ち並び、特に寺田屋は薩摩藩の常宿として藩士が出入りしていました。
 その中で、土佐藩を脱藩して維新の志を同じくする坂本龍馬も、京に滞在する際の拠点として寺田屋を利用していたようです。


坂本龍馬像。

お登勢と寺田屋の由来碑。

お登勢明神。
いずれも寺田屋の庭に点在している。


 江戸時代初期から続くと云われる寺田屋は、幕末の頃には六代目伊助が主人でしたが、近江大津の旅籠から嫁入りした、お登勢が宿を切り盛りしていたようで坂本龍馬をはじめとした幕末の志士たちからも人望を集めていたといわれています。
(このあたりはドラマでご覧の通りです。)


玄関から中を見たところ。

中は龍馬に因む品々でいっぱい。

 俗に言う「寺田屋騒動」あるいは「寺田屋事件」と言われるものは2つあります。
一つは文久二年(1862)四月、尊皇攘夷を目指す薩摩藩士有馬新七らが島津久光の命を受けた奈良原喜八郎らによって弾圧された事件です。
  これは薩摩藩内の尊皇派と公武合体派との対立が原因ですが当時、尊皇派は薩摩藩でも非主流であったため、有馬らのこころざしは後に続く志士たちに託される事になりました。


有馬新七らと奈良原喜八郎らが争った一階の部屋。

騒動の後、部屋は薩摩藩によって改装されたので、乱闘のあった痕跡は全く残っていない。

 もう一つは、当時薩摩藩と長州藩が手を結ぶために暗躍していた坂本龍馬が寺田屋に滞在中、伏見奉行所の捕吏にとりかこまれてしまった事件です。
慶応二年(1866)二月、まさしく薩長同盟が結ばれた二日後、一月二十五日の深夜に一階で湯浴みしていた龍馬の許婚、お龍が不審な物音に気付き、裸のまま二階へ駆け上がって龍馬に異変を告げたため、竜馬はピストルを撃って追っ手を威嚇しながら、屋根伝いに逃げることが出来たということです。


龍馬の居室であった「梅」の間。

「梅」の間の内部。肖像画はお登勢が伏見の画家に描かせたと言う龍馬の姿。

龍馬がピストルを撃ったときの弾痕と云われている。

「梅」の間に掛けられた額)。

お龍が湯浴みしたと云われる風呂桶。

お龍が駆け上がった階段。

階段を1階から見たところ。
「昔白刃の裏梯子」と名づけられている。


寺田屋正面。

寺田屋の前の濠川(伏見を流れる運河)。幕末当時は幅が70m程あり、多くの船が行き来したと伝えられる。

平成の現在も実際に宿泊できる旅館として営業していますが
今年いっぱいは観光客が多いとのことで宿泊の業務はお休みです。
見学のみとなります。

午前10時〜午後3時50分受付

入場料 大人 
    子供(小学生) 200円
    〃 (中高大) 300円
    団体  30名以上1割引

寺田屋 пD075−622−0243


(2004年10月)

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