暖簾を創り育てるために挑戦し続けた昭和の女性創業者「鼓月」中西美世

  • 負けてたまるか!
  • 京菓子處 鼓月 女性創業者 中西美世
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  • 京菓子處 鼓月 女性創業者 中西美世
  • 京菓子處 鼓月 女性創業者 中西美世

すべての始まりはひと缶の黒砂糖

中西美世は、昭和16年1月に結婚し12月に長男を出産。しかし、太平洋戦争が勃発し、夫は昭和18年7月に徴兵されてフィリピンで戦死しました。戦後、美世は夫の遺骨を引き取りに伏見・深草の第十六師団を訪れましたが、渡されたのは白布に包まれた小さな木箱。形だけの遺骨引き渡しで、中に入っていたのは、夫の名前が書かれた木片一つ。夫が亡くなったという実感はありませんでした。わずか二年半、これが美世の人生における結婚生活のすべてでした。
仕事もお金もなく、幼い子供を抱え途方にくれていたそんなとき、物置でひと缶の黒砂糖を見つけたのです。「お菓子を作るんや。戦争で疲れた人たちのためにも。生きていくためにも」美世は米などに交換するでもなく、黒砂糖を元手に商売を始めることを決意しました。物がなかなか手に入らない時代、材料をかき集め、持ち前の前向きな姿勢でがむしゃらに菓子を作っては売り歩いた美世。戦後まもない昭和20年。これこそが、鼓月の始まりの一歩となったのです。

  • 昭和16年 結婚 わずか2年半で夫は戦死する
    昭和16年 結婚 わずか2年半で夫は戦死する
  • 昭和26 年 中西菓舗開店
    戦争で夫を失った女性たちが働く場を求めて美世のもとに集まった店は一つの大きな家族のようだった

情けにこぼれる涙から決意

日本の戦後は「飢え」からの出発でした。統制経済が厳しく、闇で買った物資を使って商売をしていることが経済警察に知れたら全部没収されてしまうような状況でした。
真冬のある日、恐れていたことが起こります。闇で物資を買い、夜中に作って売り歩いていることが警察に知られてしまったのです。美世は取り調べを受け、送検されることになりました。
これまでの刑事の厳しい取り調べの事もあり、決して弱音は吐くまいと気構えていた美世でした。しかし検事は、物腰柔らかに「かわいそうになあ。こうでもせんと子供らを食べさせていけんわなあ。これからは気をつけなさいよ」と微笑みかけてくれたのです。検事が送った最後の言葉「あんたも頑張って生きていくんやで」、この一言で堪えに堪えていた涙が堰を切ったように溢れでていました。
今回は温情ある判断を下されましたが、いつまた警察に摘発されるかわかりません。美世は正々堂々と商売がしたかったため、製菓組合への入会を決意。昭和23年、願いは通じ、晴れて組合への入会を認められたのです。

  • 昭和26年 中西菓舗開店
    昭和26年 中西菓舗開店

待ち受けていたのは老舗の壁

ある時、引き菓子の注文を受けたものの「落雁」をあと一歩上手く作ることができませんでした。もともと菓子作りの基本も分からず始めた仕事。しかし、教えを乞おうと同業者を廻るも、「一子相伝」、「知りたかったら盗んだらどうや」と、どこも取り合ってはくれません。この時は、製菓組合の宴会で菓子作りの会話に耳をそばだて、秘伝やコツを得て、なんとか仕上げることができました。このことが、その後の関東での菓子修行への起因となりました。
老舗の壁を感じることは、デパートへの進出でも起こります。美世は、知名度のアップと販路の拡大を目指してデパートを飛び廻ります。その中で、商品を置こうと返事をくれたデパートが一つありました。いよいよ商品の納入が3日と迫った日のこと、百貨店の担当者から突然電話が入りました。それは注文断りの連絡だったのです。理由を聞くと、ある老舗さんから「中西はんとこみたいな、昨日今日できたようなとこと店を並べるんやったら、うちの店は引かせてもらいます」と言われたと。受話器を握りしめたまま、くやしさと怒りで粉だらけの手が打ち震えた美世。世間の厳しさと理不尽さを思い知らされた出来事でした。

突破口は芸妓のヒント

「中西製菓」として動き始めたころ。美世は、老舗がひしめく京都で生き抜くため、あらゆる場で商売のノウハウやしきたりを肌で感じて学びを得ていました。そして、「負けてたまるか、いつか京都で5本の指に入る菓子屋になる」という強い想いで、男性社会へも飛び込んでいったのです。男性たちと一緒に酒を酌み交わしていたそんなある日、酒席で同席していた祇園の芸妓が、何気なく口にした一言が美世の琴線に触れました。
「今の若い子は、チョコやバターが好きどすなぁ」。
この言葉をきっかけに、美世の頭の中で何かが動き始めました。当時は戦後10年も過ぎ、日本人の生活習慣が急速に欧米化していった時代でした。そんな時代の変化を感じ取り、「チョコレートまんじゅう」を作ろうと提案した美世。当時、京都の和菓子ではバターや生クリームなど、洋菓子の材料を取り入れる店はありませんでした。それは暖簾にしばられない新参者だからこそできた発想でした。失敗を恐れず挑戦した洋風和菓子「チョコレートまんじゅう」は、時代の流れに合致し順調な売れ行きを示していきます。

  • 昭和29年 第13回 全国菓子大博覧会 スーツ姿で男性と肩を並べる美世と「中西製菓」の暖簾
    昭和29年 第13回 全国菓子大博覧会 スーツ姿で男性と肩を並べる美世と「中西製菓」の暖簾

永遠に残り続ける会社

美世は京菓子店として京都に根を下ろしていくには、「中西製菓」という個人商店的な名よりも普遍性のある、ずっと続いていく名に変更すべきだと考えていました。そこで昭和32年、知り合いの妙心寺の老師の元を訪ね相談したのです。
虎が月に向かって吠えるような勢いのある勇ましい名前をと考えていましたが、老師からは思いもよらぬ言葉が返ってきました。「いくら虎が吠えても、お月さんまでは届かん。互いの距離は永遠に縮まらん。それならば優雅な鼓の音が月まで響き届くような、雅で壮大な名前“鼓月”はどうだろう」。
老師の言葉は、それこそ鼓のごとく、常に気を張り続けていた美世の胸にすっと響き届きました。夜空に浮かぶ月。静寂の中、ふと響き渡る美しい鼓の音。そのような情景を思い描くことができた時、探していたものにやっと巡り会えたような気がしたのです。かくして中西製菓株式会社は、「鼓月」として新たなスタートを切ることになったのです。

転機となった華

「目先の新しいお菓子だけでなく、ずっと世に残っていく、鼓月といえばコレというもんを作らんと」。美世は、京都にはない「鼓月にこの菓子あり」と言われるような菓子を作るため、職人を東京へ修行に向かわせました。代表となる菓子作りを託したのです。
試作を重ね、修行の成果としてバターの香りが漂う口ほどけの良い饅頭が出来上がりました。
「一言では言われへんけど、ほんまに美味しいわ」。
今まで食べたことのない味わいに驚き感動し、言葉がでなかった美世。そして菓銘の相談に、今度も妙心寺の老師を訪ねました。すると「大事にしたいお菓子なら、愛着がもてるように好きなものに因んだ名前がええと思うよ」と言われました。即座に「それやったら花が――」と答えた美世。老師は、「花は枯れるが、枯れることのない“華”はどうか」と。お菓子の華やかなイメージと、美世のこのお菓子にかける想いがひとつになった瞬間でした。
洋菓子の素材を生かしたまんじゅう「華」は、いままでになかった新しい和菓子として徐々にその認知度を高め、著名な方々からも賛辞を寄せていただきました。この「華」の発売が鼓月の礎となり、京都の菓子屋として身を立てるきっかけとなったのです。

  • —当時の様子—

    —当時の様子—

災い転じて 千寿せんべい

「千寿せんべい」のはじまりは昭和38年のこと。今では、全国の菓子メーカーが自社製品に取り入れていますが、鼓月が創り出して新しいスタンダードとした菓子です。この「千寿せんべい」は、「華」を生みだした職人が新たな菓子を作ろうと機械を購入した際に、間違えてドイツ製の焼肉製造機を購入してしまったことをきっかけに創り出されたものです。
「使わんかったらもったいない!災い転じて福となす、や!」
美世はこれがチャンスだと言わんばかりに、土産に相応しい新商品を生み出そうと試みました。その機械は肉の脂を落とすためのナミナミの型が付いていました。このナミナミで作るせんべいなら、素材を硬くしなくても割れ難い上、斬新で印象的なデザインになり、他社との差別化が図れるはずと考えたのです。まさに、あえてナミナミを武器とする、逆転の発想でした。特殊なふくらし粉を使い、せんべいの厚さを保ちつつ軽さと歯触りのよさをもったヴァッフェル、「千寿せんべい」を作り出すことに成功したのです。 評判は上々。現在では、「鼓月」の売り上げナンバーワンの座を占めるまでになりました。どんな事でもチャンスに変える精神を持つ美世。マイナスをプラスに変えていく、その姿勢があったからこそ、「千寿せんべい」が生まれたのです。

  • —当時の様子—

    —当時の様子—
  • —当時の様子—
    息子 博温と

して今の歩みへ

「華」と「千寿せんべい」の売れ行きは好調で、順調に出店を重ねていきました。美世は昭和57年、「京都で5本の指に入る」という目標に向かう中、分散していた工場や施設を移転・新設するという大きな決断を下します。そして、この第二の創業ともいえる新工場を契機に、後継に道を引き継ぐことにしたのです。自分が身を引いても、受け継がせる精神は残したとの想いがありました。
中西美世は、「華」や「千寿せんべい」の2つの誕生秘話が象徴するように、新しいものを創ることへの貪欲さやポジティブな発想といった、常に前向きな精神をもった人でした。それは、踏まれても立ち上がる雑草のような強さとでも言えるでしょう。この精神は、今もなお「鼓月」に脈々と息づいています。